興福寺(中金堂)ご朱印①2012/12/14

興福寺御朱印-中金堂.jpg

興福寺 中金堂 御朱印

東大寺と同日に訪れた興福寺の御朱印です。

興福寺の境内もかなり広く、見所がたくさんあるのですが、残念がら時間切れで全て回ることができませんでした。

御朱印は東金堂と五重塔の前辺に納経所があり、そちらでいただくことができました。

興福寺もたくさんのお堂があり、御朱印も1つでなく何種類かあるようです。

私が今回4つの御朱印をいただきました。

~中金堂について~

興福寺には、金堂が3棟ありますが、そのうち中心となる金堂を中金堂と呼びます。
和銅3年(710)の着手、7年の完成で、その創建者は藤原不比等です。
興福寺の縁起類をまとめた『興福寺流記』に中金堂院の規模を、次のように記します。
「金堂一宇 宝字記云 長十二丈四尺 延暦記云 九間十丈五尺云々 広□八尺 延暦記五丈八尺 大小垂木端并高欄用截金銅餝 延暦記高二丈三尺五寸」また堂内には本尊釈迦丈六仏像、脇侍菩薩4躰(十一面観音二躰と薬王、薬上菩薩)、四天王像、さらに2組の弥勒浄土像が安置されていました。この弥勒像のうち古い像は、興福寺創建者藤原不比等の妻橘三千代が、不比等の一周忌にあたる養老5年(721)に造像したと記しています。
 
平成22年に興福寺創建1300年を迎え、平成30年(2018)に中金堂の落慶を目指して計画が練られています。
再建は創建当初の復元を目指し、まず発掘調査の結果に基づいた平面規模と位置の確認を行い、建物の形式と構造・意匠は奈良時代以降の縁起類をまとめた『興福寺流記』、平安時代後期の『七大寺巡礼私記』、中世再建建物の絵画、構造図などの史料を参考に、古代建築史の研究成果に基づいて、興福寺中金堂復元検討委員会で慎重な審議が重ねられました。平成19年(2007)9月に『史跡興福寺旧境内復元検討資料』がまとまり、復元計画案の策定が行われました。
仕様面では古式に則る純木造建築であるため、基本的には奈良時代から現代まで脈々と受け継がれてきた日本建築の伝統的な木工技法を踏襲すると共に、関連するその他の工事の実施にあたっても、出来得る限り古式の工法を採り入れました。
興福寺は度重なる火災後の再建に際しては、創建当初の姿や規模にこだわってきました。それほど保守的で、奈良時代への愛着があったのです。創建当初の図面は伝わっていませんが、記録や発掘調査の結果から、創建当初の中金堂規模は東西36.6m、南北23m、最高高21.2m、寄せ棟造、二重屋根、裳階付きで桁行(東西)9間、梁行(南北)6間の建物です。
平成二十二年(2010)に10月立柱式を終え、落慶は平成三十年(2018)の予定です。
 
~公式サイトより~
興福寺.jpg
 

 

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